わが背子は物な思ひそ… (後編)

(お願いだ。どうか・・・無事で・・・いてくれ。)

今まさに消防が消火にあたっている建物正面から、蓮は裏手へと回り込んだ。
避難指示が出ているせいか周辺に人影はなく、ただ煙と熱気、焦げ臭さばかりが辺り一面に立ち込めている。
1階の外壁には、大きな窓がひとつ。
その窓が、キョーコがいたという荷物室の窓であることを、偶然にも蓮は知っていた。

(ここにいてくれれば……。)

祈るような気持ちで窓を見、それからさっと左右を見回した蓮は、そこにホースがつながれたままの水栓があることに気付いた。
(ありがたい。)
急いで駆け寄り、水が出るか確かめる。
蛇口を捻ったとたん、ホースの先から弧を描いて吹き出す水。
(よかった。出る。)
そのまま迷いなくホースを頭上に振りかざすと、蓮は溢れ出る水を勢いよく浴びた。

瞬く間に全身がずぶ濡れになる。
濡れた身体に張り付いた上衣を伝い滴る水が、足元に小さく水溜りを作るほどに。

艶めいた黒髪も今はぐっしょりと濡れ、重く垂れた前髪が額にかかり、視界を邪魔する。
それを鬱陶しそうにかきあげると、蓮は鋭く光る瞳を再び建物へと向けた。
髪を押さえる指先からは、ぽたぽたと水滴が止まることなく滴っていく。
そんな状況になってなお、いやそんな状況だからこそ、蓮の美貌は戦慄くほどの凄みを、誰知れず帯びていた。

「ガラス窓か……。」
ポツリと呟く。
額から流れ出た雫がひとつ、頬を伝い顎先へと流れ落ちた。

一度大きく頭を振り、邪魔な水滴を振り落すと、蓮はおもむろに放置されていた椅子を取り上げ、目の前のガラス窓を叩き割った。
途端に中から黒煙と熱気が噴き出してくる。
だが、作業音がスタジオ内に響かぬよう中扉が強固に作られていたことが幸いしたらしい。
煙も熱も思ったほどの激しさはなく、また、有難いことに火はまだこの部屋まできてはいなかった。
それでも次第に濃くなっていく煙を避けるように、軽く俯き目を細めると、蓮は勢いよく中へ飛び込んだ。
全身を煙が一気に襲う。

「最上さんっ!最上さん、いるかい!? いたら返事をしてくれ!」

霞む視界に焦る蓮は、叫びながら辺りを必死に見回す。
いくら遮断されていたとはいえ、スタジオにつながる扉から伝わる熱が次第に温度を高めていくのが、中にいるとよくわかる。
なにより、この煙が危ない。
蓮は、血眼になって愛する少女の姿を追った。

腰をかがめ、懸命に煙を手で振り払い、順に足を進めていく。
そのとき……すぐ近くでカタリと音がした。

ハッと振り返り、音のした方向へすぐに目を向ける。
そこには、さまざまな小道具が置かれた背の高い戸棚が2台並んでいた。
よく見ればその隙間にあたる位置に、人影らしきものが……ある。

「最上さんっ!大丈夫かっ!」

無駄な煙を吸い込まぬよう注意しながら駆け寄った蓮が目にしたのは、戸棚の隙間にすっぽりとおさまり、膝を抱えて俯いている少女。
煙を避けようとしてか、ハンカチで鼻と口を押さえている。
その彼女が、蓮の声にゆっくりと顔を上げた。

「つ…る……が……さ………。」
蓮の顔をみて安心したように微笑んだキョーコは、両手をふらふらと差し伸べるように蓮に向けると、そのままぐらりと意識を失った。



* * *



撮影後スタッフを手伝い、小道具の片付けをしていたキョーコ。
さまざまな備品が戸棚に雑然と押し込められているのが気になった彼女は、つい始めた整理整頓に夢中になっていた。
火が出たのはその直後。
扉から離れた奥まった場所にいたため、キョーコが出火に気付いたときは、もう荷物室から出られなくなっていた。

叫んでも、叫んでも、どこからも返事はない。
(どうしよう……。みんな私がここにいるのすら、知らないのかもしれない。)
少しでも煙の回りが遅そうな戸棚の影に座り、持っていたハンカチで口を押さえる。
(お願い。誰か……誰か……気づいて……。)
追い詰められたキョーコの頭にふわりと浮かぶ1人の影。
(敦賀さん……。)


会いたい
もう一度だけでいい
敦賀さんに会いたい
声を聴くだけでもいい
幻でもいい
敦賀さんに会いたい
このまま二度と会えなくなるくらいなら、
せめて、ちゃんと伝えればよかった
この想いを、伝えればよかった


そう―――
少しでも気を抜くと薄れそうになる意識の中で、キョーコが想ったのは、ただ、蓮のことだった。



* * *



(いけないっ!)
倒れかけた身体をしっかりと抱きかかえると、蓮はすぐに壊した窓へと駆け戻った。
焦る気持ちを押さえ、抱き上げたキョーコを傷つけぬよう割れたガラスの破片に注意しながら、慎重に外へと脱出する。

寸前まで2人がいた場所は、間もなく煙も熱も限界に達しようとしていた。


*


蓮のやわらかな掌が、確かめるように何度もキョーコの頬から顎先へ行き来を重ねる。
唇を僅かに開き、目を閉じたままの彼女。
愛する人を助け出せた喜びよりも、その人が意識を失ったままでいることへの不安が勝り、蓮は自分が有り得ないほど怯えているのを感じた。

(これほど大切な人を俺は失いかけていた・・・。)

湧き上がる怯えを懸命に振り払い、蓮はキョーコを抱えたまま先ほど水を浴びた水栓に向かう。
見慣れた栗色の頭が煤で汚れ、燻されたような煙の臭いが立ち上る様が痛々しくてならなかった。

せめて汚れをぬぐうだけでも、とキョーコが手にしていたハンカチを探したが見当たらない。
どうやら連れ出すときに、意識を失った彼女の手から落ちたらしい。
蓮はそっと跪きキョーコを身体で支えると、迷いなく自分のシャツの袖を破り、それを水に浸した。
そして、キョーコの髪や頬を軽く拭き、タオル替わりに首元に充てる。


ん……んぅん……。


ほどなくキョーコの意識が戻る気配がした。
その様子に、蓮は安堵の息を漏らす。

「つ…るがさん……。」
まだ覚醒しきらない様子でぼんやりと瞼を開いたキョーコは、心配そうな表情で自分を見つめる蓮に気付くと不思議そうな表情を浮かべた。

「どう……したんですか?……ずぶ、濡れ…ですよ。それに……せっかくのきれいなお顔が…煤で真っ黒です……。」
「最上さん……。」
それ以上、蓮は言葉が出ない。
そんな蓮をキョーコは潤んだ瞳でじっと見つめた。

やがて、意識がはっきりしてきたのだろう。
はっと目を見開くと、キョーコはくしゃりと顔を歪め、両の瞳からぽろぽろと涙を零し始めた。

「敦賀さんが、私を……助けてくださったんですね。あんなに……煙も、熱もひどかったのに……。ごめんなさい。敦賀さんを、危ない目に合わせて……ごめんなさい……。」
小さくごめんなさいと繰り返すキョーコ。
その髪をやさしく撫で、蓮は答える。

「いいんだ、いいんだよ。最上さん。2人ともこうして無事だったんだから。だから、気にしないで。」
「煙が……あっという間にひどくなって……。周りもだんだん熱くなってきて…でも、どうしたらいいかわからなくて……。」
しゃくりあげながら、キョーコは言葉を止めることができない。
「もうダメかもしれないってそう思ったとき……敦賀さんの声が聞こえて……。」
震えの残る声。

「でも、声が出せなくて……。何も見えないくらい煙がひどいし、だんだん音もよく聞こえなくなってきて。もしかしたら幻聴だったのかもしれないって……。」
キョーコの口から堪え切れぬように嗚咽が漏れた。
それを和らげるように、蓮の手がぽんぽんとやさしくキョーコの背を叩く。

「そのとき敦賀さんの顔が浮かんで。どうしても、どうしてもまた敦賀さんに会いたいって……思ったんです……。」
大粒の涙が瞳から次々と零れ落ちる。
たまらず、蓮はその細い肩をギュッと抱き寄せ、まだ煙の臭いが残る彼女の頭に顔を埋めた。

「本当にいいんだ。最上さん。君さえ無事なら俺は……それだけでいいんだ。よかった…。ほんとうに…よかった……。」
呻くように答える蓮の背に、ゆっくりとキョーコの腕が回る。
細く伝わる温もりが蓮の心を締め付けた。


「敦賀さん……。敦賀さんにもう一度会えてよかった……。本当に……会えてよかった……。」
その言葉に蓮が顔を上げた。
見ればキョーコが涙に濡れた瞳でゆっくりと微笑みを象り……それから蓮を見て驚いたように小さく口を開いた。

「どうして……敦賀さんまで泣いてるんですか?」
首を僅かに傾げると、キョーコはすっと手を伸ばして、蓮の目尻から雫をやさしく拭い取った。
その指の感触に、蓮の身体がびくりと震える。

「だめですよ。男の人がそんなに簡単に泣いちゃ……。」
ふわりと穏やかな笑みを浮かべるキョーコ。
「男の人が泣いていいのは、生まれた時と親が亡くなった時とお財布を落とした時だけだって、私何かで読みました。」
「君は……こんなときまでそんなことを……」
反論しようとした蓮を抑えるように、キョーコは自分を抱き締める腕を緩く握った。

「でも……こんなことを言ったら不謹慎かもしれないけれど……嬉しいです。敦賀さんが…私が無事だからって泣いてくれるなんて。」

もう我慢しきれず、蓮は力いっぱいキョーコを抱き締め、耳元で囁いた。

「生きていてくれてよかった。俺の元に帰ってきてくれてよかった。君がいなくなったら俺は……。」
蓮の言葉に重ねるように、キョーコの掠れた声が響く。

「もし・・・もう一度敦賀さんに会えたら・・・そしたら・・・言わなくちゃって思ったことがあるんです。」
キョーコの喉からこくんと小さく唾を飲み込む音がする。


「敦賀さん。…………私、敦賀さんのことが好きです。好きなんです。」


*


2人の元に駆け寄ってくるいくつもの人影が見える。
けれども蓮は、その腕からキョーコを離そうとはしない。
キョーコの頬に自らの頬を摺り寄せたまま、蓮はしっかりとその身体を抱き締め続ける。


その腕で、あらゆる禍いからキョーコを守り抜こうとするかのように。
そして・・・この先何が起ころうと彼女を決して離しはしないと、そう誓うかのように。





わが背子は物な思ひそ事しあらば 火にも水にもわれなけなくに 
(私の愛しい人よ。もう何も心配することはありません。たとえどんな苦境に陥ろうとも・・・そう、火の中だろうと水の中だろうと、あなたには私がついていますから。)



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※最後になりましたが、スタジオについて、および火事から救出した際の対処についての記述はすべて想像の産物です。間違った記載が多々あるかと思いますが、どうぞお許しください。
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