梶の葉 (後編)


「お忙しいのに………送ってくださりありがとうございました。」

いつもと同じ路地裏で車を降りると、彼女はやけに丁寧に頭を下げた。
今日は送らなくていいと何度も固辞する彼女を振り切り、無理やりここまで送ってきた俺。
いっしょに車を降り目の前に立っておきながら、何を言うでもするでもなくいつも通りの別れの時が訪れる。
ただ違うのは、これがおそらく最後の”別れ”だということ。

「……いや。」
そのまま言葉が続かない。
そんな俺を黙って見上げる瞳はちりちりと切れかかった電灯の光を浴びて、まるで溜池のような曖昧な光を放っていた。
もの問いたげに揺れる視線に、心臓をワシ掴みにされたような痛みを覚える。
それでもまだ俺は、言うべき言葉を見つけられずにいた。

「あの………向こうに行っても、がんばって、くださいね。私、応援しています、から。」
途切れがちに告げられる声に震えが混じる。
そうして再び互いに言葉を見失ったまま、ただ見つめ合う時間が幾時か過ぎた。
耐え切れないほどの苦しさを伴う沈黙を、それでもこうして二人見つめ合っていられるのなら永遠に続いてもかまわないと思ってしまうのは、ただ君を恋しく想う気持ち故だったのかもしれない。

俳優として納得できる場所にたどり着くまでは、何も言えない、何も言わない。
たくさんのことを隠したままの俺に、君を抱きしめる資格なんてない。
冷静にそう思う自分をいっそどこかへ振り捨ててしまいたかった。

――――できるはずもないのに。

「いつか……、いつか、追いつけるくらい私もがんばりますから。」
やがて意を決したようにそう言うと、彼女はぺこんと頭を下げた。
「いろいろ大変なこととは思いますが、敦賀さんならぜったい大丈夫です!どうかお身体に気を付けてがんばってください。」

一気にそう言って踵を返した彼女。
一瞬立ち止まり、駆けだそうとしたその背をみたとたん、身体が勝手に動いた。
足早に近づき、華奢な背中を後ろからぎゅっと抱き竦める。
「……え?」
「少しだけこのままでいさせて。」
そう言って、うっすらと石けんの香りが立つ髪の中に顔を埋めた。
柔らかな毛先が、頬をさらりと撫ぜる。
「あの……。」
戸惑ったように漏れる小さな声。
「ごめん。ちょっと立ちくらみがして。」

離れたくなくて。
離されたくなくて。
辻褄の合わない言い訳をばかみたいに呟いた。

そうじゃない。
本当は彼女を捕まえておきたかっただけ。
その身体を、その心を、その何もかもを。
この腕の中にずっと閉じ込めてしまいたいと、思う気持ちを押さえられなかった。

回した腕に、彼女の掌がそっと重なる。
「大丈夫ですか?」
やさしく言うその声が僅かに震えていて。
俺はようやく自分を取り戻した。

「うん。大丈夫。ごめんね。重かっただろう?」
「いえ、あの……本当に明日出発、なんですか?」
「ああ。」
「お見送りは……。」
「ごめん、内密な出発だから。見送りはなしってことになってるんだ。」


ああ、だめだ。
今さら気づいても、もう遅いのに。
彼女がいないと。
彼女の温もりがないと。
俺の、俺自身の心はどんどん朽ちて壊死していってしまう。

ただ、演技への思いだけを残して。

わかっていても、もうどうすることもできない。
それでも俺は、俺の道を進むことを選び、夢を叶えることを望んだ。
唯一残される演技への思いに、身を沈めて。
俺は、このまま歩き続けると決めてしまった。
でも………本当に、本当にそれでいいのか?

けれど、答えはもう出ていた。


俺はゆっくりと身体を離し、小さな後頭になけなしの想いを囁いた。
「絶対に追いついて。君ならできる。君なら必ずできるから。楽しみにしているよ。いつか君と肩を並べてレッドカーペットを歩く日が来ることを。」

――――それが俺の願い事。

おまけのように最後に一言そう言い置いて、俺は逃げるようにその場を去った。




同じころ――――、
LMEの玄関に据えられた大きな大きな笹には、たくさんの短冊が揺れていた。
その中でもずいぶん目立たない場所にそっと吊るされた小さな白い短冊。
薄く書かれた願いの言葉がひらりひらりと頼りなげに風に舞う。


『いつか追いつけますように』





* * *





「……て?起きて?」

目を開けなくても誰だかわかる愛しい声。
耳もとを掠めるその声に呼ばれゆっくりと瞼を開けると、焦点がまだ合わない視界に君の姿がぼんやりと浮かんだ。
久しぶりにとれた休日に、いつのまにかリビングで眠りこけてしまっていたらしい。

「疲れているのにごめんなさい。私じゃどうしても無理で……お願いできる?」

そう言って君が指さしたのはベランダに置かれた大きな大きな笹。
LMEの玄関に飾られるものに比べたら雲泥の差だけれど、それでもずいぶん大きなサイズだ。
たしかに君の力ではあれを据えるのは大変だろう。

「あの子たちが帰ってくるまでにって思って………。」


そうか。今日は七夕か。
だからあんな古い記憶を夢に見たのかもしれないな。

「うん。わかった。でも、その前に………」

言いながら俺はそっと両手を伸ばし、のぞきこんでいた君の身体を引き寄せた。
腕の中に囲い込んだ柔らかな肢体に顔を寄せ、トクトクと脈打つ鼓動を頬で確かめる。

「ちょ、ちょっと何をす……!」

文句を言いかけた可愛い唇を唇で塞ぐ。
それでもなお顔を真っ赤にしながらじたばたと暴れる君が愛おしすぎて。
抱えた両腕にこれでもかと力をこめ、今度は目の前の胸元に淡く残る口づけを施した。

「昔の夢を見たんだ。」
「昔の夢?」


*


天の川を挟んで離れ離れになった牽牛と織女のように、七夕の日を境に海を挟んで日本とアメリカに離れ離れになった俺たち。
といっても夫婦だった彼らと違い、何の約束もない、いやそれどころかただの先輩後輩に過ぎない俺たちには、年に一度会う機会すら与えられていなかった。

そして………。
君と最後に会ったあの日の前が3年連続雨だったように、翌年も翌々年もその次も、日本ではやっぱり雨の七夕が続いた。
牽牛と織女も会えなかった3年。
仕事が順調になればなるほど募っていく君への想い、高まる焦燥、渦巻く諦観。

君を失いたくないと。
たしかにそう思っていながら、それでも役者として目指す道を歩むことを選んだ俺は、正直もうどこかで諦めていた。
君と再び運命が交差することはないかもしれないと。
たとえ交差することがあっても、俺が君を手に入れるチャンスが巡ってくることはもう二度とないだろうと。
そのくせそれをはっきりさせるのが何より怖くて、俺は日本に行こうとすらしなかった。

でも―――――――。


久しぶりに晴れた、4年目の七夕。
君は突然俺の前に現れた。
「えへっ、来ちゃいました。」
照れ笑いを浮かべながらそう言って、ちょい役ですけど私もついにハリウッドデビューです、と俺に向かって胸を張ってみせた君。
それは、俺が初主演する映画だった。


神様は本当にいるのかもしれない。
俺は、本気でそう思った。


*


「………七夕の日の夢。」

その一言で君も記憶が蘇ったのだろう。
ゆっくりと花のような笑みを浮かべると、そっと俺の頭を抱き寄せて言った。

「短冊に書いた願いが本当にかなうなんて思ってもみなかった。」

じんわりと俺を包み込む、この世の何よりも愛おしい君の香りと温もり。
あの七夕の日の俺は、それを手に入れることを諦め、自分の夢ばかりを追いかけようとした。
どうしてそんなことができると思ったのか。
今にして思えば不思議でならない。
こうして手に入れてしまえばなおさら、それがない人生など到底考えられるはずもないと気づかされるのだから。

「俺も。」

答えながら俺は、見上げた先に揺れる桜色の唇に再び甘くて深いキスをする。
この温もりを享受できるのは俺だけだと、その場所に刻みつけるように。
「……んんっ………………ダ、ダメッ!」
それなのに君ときたら、ぎゅっと両手に力を込めて俺の顔を突き放そうとするから。
そうはさせまいと、つい何度も何度も角度を変えて繰り返したキス。
気が付けばそれは段々と深さを増していき………息の上がった君が、顔を顰めて俺の胸をトントンと叩く。

「だっ、だから……あの子たちが帰ってきたら短冊をつけられるように、ベランダに笹を立てておきたいのっ。」
焦った口調と尖った唇、真っ赤に染まった頬。
いつまで経っても初々しさの抜けないその様に名残惜しさが募り、今度はやさしく唇に触れた。

「うん、聞いてた。だから、その前にエネルギー補充?」
「エネルギー補充って……っ!」


俺たちの間に、二人を引き離す大きな天の川はもうない。
そして俺たちは今、同じ未来を見つめ、同じ1本の道を歩んでいる。
だからほら、こうして手を伸ばせば俺はいつだって君を抱き締めることだってできるんだ。
あの日、何よりも望み、けれど諦めかけた最高の幸せ。
それが今、確かにここに在る。

その現実を確かめたくて、俺はもう一度君のやわらかな唇を啄んだ。




頼まれたとおりベランダに背の丈以上の大きな笹を据える俺に、隣から君が話しかけてくる。

「あなたも書いてね。短冊。」
「キョーコはもう書いたの?」
「まだ。だってあの子たちがいっしょに書こうねって楽しみにしているから。」

そう言ってやわらかく笑う君の微笑みの美しさに目を奪われながら、俺は思う。
君が書こうとしている言葉と、俺の心に今浮かぶ言葉が同じであればいいと。

いや、きっと同じだと信じている。
今も、これからも、いつまでも。




『ずっと一緒にいられますように』






Fin
スキビ☆ランキング ←参加してみました。よろしくお願いします。
関連記事

コメント

  • 2016/07/09 (Sat)
    12:51
    後編も堪能ー!!

    とっても良かったです〜(≧∇≦)
    数年後七夕の日に再会なんて素敵過ぎです!
    蓮様離れていた間よく耐えたね!!って褒めてあげたいくらいです☆

    私もちなぞさんのお話毎回楽しみにしてますよ〜(≧∇≦)

    風月 #- | URL | 編集
  • 2016/07/09 (Sat)
    14:30
    Re: 後編も堪能ー!!

    風月サマ

    前編に引き続きコメントありがとうございます☆
    後編も堪能していただけてよかったー!!!

    敦賀さん、きっとアメリカでいろいろ後悔しつつ(←w)
    黙々と、悶々と?頑張ってたんだと思います。
    まさに「痛みに耐えてよくがんばった!」ってヤツかも?(古い)

    ちなぞ #- | URL | 編集

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する