angel's ladder (4)

騒がしいエンジン音が消え、ガラス越しに響く風の唸りだけになった車内は怖いほど静かだった。
薄暮に、白く浮かび上がる秀麗な美貌。
体温が伝わりそうなほど近くにその端正な顔を寄せられ、身じろぎ一つできない。
向けられた視線の思いがけない強さとやさしさ。
見つめられ、見つめ返し・・・それだけで一瞬が永遠に変わる。

これ以上見つめられたら、陥落する。
心の奥にしまい込んだ本音をつい口走ってしまうかもしれない。

そのぎりぎりの瀬戸際――――。

コツンッ
風に巻き上げられた小石だろうか。
窓を打つ小さな物音に、はっと我に返った。

ひゃっ!
喉の奥から変な声をあげて勢いよく飛びのき、窓ガラスにごつりと頭をぶつける。
痛さに眉をしかめた姿が相当情けなかったのだろう。
キョトンと目を瞬かせた敦賀さんの表情がにわかに崩れ、ぷっと噴き出した。
「大丈夫?」
張りつめていた空気が一気に緩む。
(・・・よかった。)
頭はまだじんじんと痛んでいたけれど、心底安堵した。


それからひとしきり笑って、ひとしきり痛がって。
改めて辺りを見回せば、なんてことはないと思ったその場所は埋立地へとつながる橋の上だった。
行き交う車を除けば辺りに人影はほとんど見えず、都内とは思えないほど静まり返っている。
左右に伸びる川幅は案外広く、薄暗い水面に反射光がゆらゆらと揺蕩う。
そして、遠くには見覚えのある大きな橋。

「レインボーブリッジ?」
「そう。本当は夜景のほうがずっときれいなんだけど。」
ライトアップにはまだ少し早いらしい。
「ちょっと出てみようか?あんまり長くは停めていられないけれど、そっちからじゃきれいに見えないだろう?」
「え、でも・・・。」
躊躇う私に、敦賀さんは微笑んでみせた。
「大丈夫。ほら、こうすればわからないから。」
言いながら、首にかけていたマフラーを顔半分隠すようにくるりと巻き付ける。
それからぐしゃぐしゃと無造作に髪をかき乱してみせて。
そのうえサングラスをかければ、たしかに敦賀蓮とはわからない。
わからないけれど・・・。

「なんだかとっても怪しくてキケンな人っぽいです。」
つい思ったことを口にしたら、大笑いされた。
「あははは。たしかにそうかも。でもまあ、この車にこの風体なら誰も近寄ってこないだろう?まして女連れじゃ、ね。」
緩んだ空気にいつの間にか緊張も解けていて。
サングラスを少し傾け悪戯っぽくウインクされたのに、ちゃんと笑い返せた。



外は思いのほか風が強く、ほてった頬も一瞬で冷やされた。
ほのかに潮の香りが混じる風が、微妙な二人の隙間をすり抜けていく。
眼下の展望デッキに点在するベンチには寄り添う恋人たち。
ぴたりと寄り添う彼らの姿に焦って、目をそらすように遠くの橋を見遣った。

「こんな場所があるんですね。」
「ああ。この間、撮影の帰りに偶然見つけたんだ。橋がライトアップされていて、すごくきれいだった。」

最上さんが見たらきっと喜ぶと思って。
続けられた言葉にどきりとする。
そんな風になんでもないときに何気なく自分のことを思い出してくれたことが、ひどく嬉しい。
嬉しくて緩んだ口元を気づかれたくなくて少し俯いた耳に、隣からやわらかな声が届いた。

「さっきはどうしたの?」
「え?」
突然のことに言葉を失う。
「ずいぶん長い間、空を見上げていたでしょ?」
「な、なんでもないんです。ちょっと昔のことを思い出しただけで。」
どう答えたらいいのかわからず、誤魔化すようにそう言った。
「・・・ふうん。」

敦賀さんはそれ以上なにも聞かない。
ほっとする気持ちの片隅で、それを寂しく思う自分がいることに気づき、どきりとした。



どのくらい沈黙が続いたのだろう。
すごく長かったようにも、ほんの一瞬だったようにも思える。
「見て。」
不意に掛けられた声に、え?と視線を上げ、長い指先が示す空に目を向けた。
「あっ!」
いつの間にかほんの少しだけ曇天が途切れ、そこからぼんやりと輝く光の柱が伸びている。
ついさっきまで空一面をあんなに厚い雲が覆い、今にも雨が降りそうだったのに。
雲の切れ間から漏れ出した幾筋もの光が、地上にこれでもかと降り注ぐ。
その様は神々しくさえ見えた。

「・・・きれい。」
「Angel's ladder。」
「え?」
「Angel's ladder、天使の梯子っていうんだよ。」
「天使の梯子、ですか?」
「そう。雲の切れ間から差すあの光の梯子を使って、天使は地上と空を行き来するらしい。」
「天使が!」

メルヘン脳を刺激され、思わず声が上気する。
たくさんの天使たちがキラキラ笑い合いながら、空から地上へ地上から空へ飛び交うなんて。なんてかわいいの!

ときめきに胸が躍り、目の前の荘厳な光景に心奪われる。
けれどふくらんだ気持ちが萎むのは思ったよりも早かった。
「君が生まれた日もこんな空だったのかな。だとしたら君は、天使が空から連れてきた子どもなのかもしれないね。」
さりげなく飛び出たその言葉が、心にぐさりと突き刺さった。


*


たった一言で、彼女の表情が一変した。
何がいけなかったのかさっぱりわからない。
ただ、俺の言葉が彼女の心に傷をつけたことだけはわかった。

「そんなことないです。ありえない・・・。」
俯いた彼女が小さな声でそう呟く。
「そうかな。でも、君は周りのみんなをあんなに笑顔にしているじゃないか。俺だって・・・」
フォローしたつもりの言葉で、いっそう深みに嵌った。

大きな瞳を見開いて、彼女はぷるぷると頭を振る。
「そんなことない。そんなことないです。だって、私。」
そのまま言葉が止まった。

伏し目加減に俯いた瞼から伸びるまつ毛が、頬に影を落とす。
その影の濃さに胸がドクリと痛みを伴って揺れた。




(つづく)
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