雨が雪に変わるまで (21)

「敦賀さんは、私のことをキョーコちゃんなんて呼びませんっ。」

必死の思いで私は声を上げた。
腰に回された腕の温もりが、痛いほど恋しくて離れ難くて、どうすればいいのか分からなかった。
頭が……どうしようもないほどイヤな気持ちでいっぱいになる。

(勘違いしないで!あの人と間違えないで!そんなの……イヤ!私を見て!)

全身が張り裂けてしまいそうで、溢れ出す涙が止められない。
こんな状態で敦賀さんの顔が見れるはずがない。
ちゃんと顔をみて、そして気持ちを伝えて、って思っていたのに……。

(これじゃ、ほんとにただの愚か者じゃない。)

だから、嫌だったんだ。
だから、恋なんてしたくなかった。
こんな……こんな風になってしまうから。

……それでも、止められなかった。
どうしても、抑えられなかった。
敦賀さんに惹かれていく自分を。

ショータローのときとはまったく違う。
苦しくて、切なくて、辛くて、にがくて。
胸が潰れるほど痛くなって。
でも、こうして傍にいるだけで、涙が出るほど心が震える。
恋しい……キモチでいっぱいになる。

これが……恋?
この気持ちが……愛?

叶わないと知っていても、どうすることも出来ないほど私は……。

あの眼差しも、あの笑顔も。
その指先も、その温もりも。
この声も、この気配も。

何も失いたくない。
ぜんぶ、ぜんぶ自分のものにしたい。


やるせない気持ちが頭を支配して、涙が一気に溢れた。
と、不意に敦賀さんの気配が動く。


「うん、そうだね。君の言うとおりだ。」
背後から響いてくる、あっさりとした肯定の言葉。
身体が凍りつくのが分かった。

(ほら、やっぱり。)
私じゃ……ダメ……なんだ。


「でも、俺は“敦賀蓮”じゃないから。」

――――…え?

続いた言葉に驚いて振り向けば、そこに輝いていたのは深くどこまでも澄み切った蒼。
空の青と海の青が入り混じったようなその色には見覚えがある。
忘れようとしても忘れられない、その色。

(コーン……?)
敦賀さんの初恋の話が頭に浮かび、あの時の疑念が蘇った。
(まさか、本当に……本当に敦賀さんがコーンなの?)


*


(ようやく……振り向いてくれたね。)

まんまるに見開かれた瞳とそこから溢れ出る涙に、心がさざめいた。

君は……どうするだろう。
俺がコーンだと知って。
君が妖精だと信じていた、あの男の子が俺だと知って。

(妖精……ね。)
心の中で思わずクスリと笑う。
(まさか、今でもあれが本当に妖精だったなんて、信じては……いないよね?)


さっき君の気持ちが見えたと思ったとき、俺は危うく飛び上がりそうになった。
抱き締めて、振り向かせて、顔中にキスしたい。
そんな浮き立った気持ちが全身を駆け巡った。

だって、そうだろう?
こんなに待って、待って、待って。
ただ君の傍に寄り添って、君の心が溶けるのをじっと待って。
もう、この身が擦り切れてしまいそうなほど、ひたすらに待ち続けていたんだから。

ようやく……ようやく、待ち望んだ“時”が来た。
そのことに身体が震える。

でも、急いちゃだめだ。
君を捕まえるなら、焦っちゃいけない。
そう思って、俺は必死に自分を押しとどめる。
ゆっくり、けれど確実に、俺は君を捕らえるつもりだから。
.

「キョーコちゃん。」
あの頃の響きを思い出し、できるだけ似せて俺は君に話しかけた。
「ずっと覚えていてくれてありがとう。石を大切にもっていてくれてありがとう。そしてなにより……変わらずにいてくれてありがとう。」

「コーン……なの?」
黙って微笑み返せば、君は瞬きもせず何度も何度も首を振る。

「そんな筈ない……そんな筈がない!敦賀さんが……。敦賀さんがコーンだなんて……。」
ぶるぶると震える頭にそっと手を置いた。
やわらかな髪を指先で弄ぶ。
この髪は、もう俺のモノ。

「妖精じゃなくて、ゴメン。本当のことを言えなくてゴメン。ずっと黙っていて……ゴメン。」
ほんのりと暖かみを帯びた頬。
滑らかなソレを手のひらで探る。
この頬も、もう俺のモノ。

「どうして……どうして言ってくれなかったんですか?どうして……。」
「ずっと……心が闇に捉われていたから。」
「闇……。」
「そう。でもそんな俺を君が救ってくれた。」
「私……が?」

額に唇をあてる。
掠るほどの距離から何度も何度もそこに触れた。
両手で彼女の顔を包み込む。
この瞳も、この涙も、この唇も……ぜんぶ俺のモノ。


「ねえ、キョーコちゃん。長くなるけど、俺の話を聞いてくれる?」
潤んだ瞳がくるりと回り、焦点がぴたりと俺に据えられる。


そして俺は……、俺のすべてを君に打ち明けた。


*


長い長い話の後、君はぽつりと口を開いた。
話している間ずっと、君の手を握り締め離せずにいた俺をじっと見つめて。

「どうして黙っていたんですか。なぜ一言も話してくれなかったんです。」
震える声に小さな怒りが混じる。
「バカです!敦賀さんは大バカ者ですっ!神様じゃないんですから、誰にだって迷いはある。惑うこともある。道を間違えることだって、踏み外すことだってあるんです。それが……人間だもの。そんなとき助け合うために、人はこうやって、いっしょに生きてるんじゃないですか。それをあなたは、たった1人で抱え込んで、ずっとずっと1人で苦しんで……。あなたは何も……何も悪くないのに……。」

そう――。
俺は長い間、差し伸べられる手を邪険に振り払い、寄せ付けず、拒絶して、たった一人奈落の底に佇んでいた。
誰も俺を救えるはずがないと勝手にそう思い込み、ドロドロに澱んだ深い闇の中を、孤独を感じながら、ただ這いずり回っていた。

でも……、君に巡り会えて、そこに一筋の光が差し込んだ。

「君が……あの闇から俺を救い上げてくれたんだ。」

君に出会って、俺はどうにもならないほど強い想いを知った。
押さえつけても留まることを知らず、溢れ出る愛を知った。
なんとか押し殺そうと必死になった時期もあったけれど……でも、結局それが、俺を救った。
君の存在が……俺を救ってくれた。

「どれほど深い闇に捉われても、君への想いだけはどうやっても捨てられなかった。たぶん、初めて会ったあの頃からずっと……、俺の心には君しかいない。」

俺だけの君を、もう一度この腕の中に抱き締める。


「君を……愛してる。」



「うそっ。そんなはずないっ!だって、敦賀さんにはあの人がいるもの。私なんか……ありえない。信じられないっ。」

俺の言葉に、君は何度も否定の言葉を繰り返す。
だが、そんなこと、今の俺にはたいしたことじゃない。
ごめんね。
どんなに君が否定しても、俺はもう絶対に引かない。
いや、引けないんだ。

「あの人って誰?俺には君以外、見えてないのに。」

見れば、つぶらな瞳から涙の粒がとめどなく溢れ、頬を伝い、唇端をたどり、零れ落ちていく。
溢れ出る滴を、俺は指先で幾度も拭った。

それでも止まらないから……。
俺は彼女の目元に唇を落とし、涙をそっと吸い取った。


そう――。
この涙のひとしずくだって、俺はもう誰にも渡さない。



*



どうしたらいいか分からなかった。
混乱が、収まらない。
ただ、敦賀さんの言葉が、全身に溢れていた。

「敦賀さんが好きなのは……恭子さん……深見恭子さん、のはずです。」
やっとの思いで言葉を絞り出す。
でも本当は、頭のどこかがもうそれを否定していた。

「ホントに、まだそう思ってるの?」
艶やかな声が面白がるような色を見せる。
「坊、のくせに。」

……え?
どうして?どうして知ってるの?

「まったく、参ったよ。まさか、本人相手に恋愛相談をしていたなんて、ね。」
聞こえてくる言葉に、とまどいを隠せない。
「君は……あそこまで聞いて、本当にあれが自分のことだとは思わなかったの?」

「だって……だってあり得ない、から。」
「あり得ない……?どうして?君に話した条件はぜんぶあてはまるはずだ。そりゃそうだよね。本人なんだから。」

そう……だけど。

「君以外の誰も・・・。俺は好きになったことさえ、ないのに。」

敦賀さんは、私の目をみてはっきりとそう言った。
それからすっと視線を上に逸らす。

「ああ、もしかして……だから逃げ出したの?俺の元から。勝手に勘違いして。それで……。」
「逃げ出したなんて、そんな……。」
思わず反論の声を上げた私の顔を、美貌の顔が覗き込んだ。
近付く瞳に浮かぶ意地悪な笑み。

それなのにどうして、どうしてこの人はこんなに嬉しそうなんだろう。


「ねえ?それって……嫉妬、だよね?」




「嬉しいよ。」

言葉を失った私に、敦賀さんは畳みかけるように続けた。
容赦ないほど端正なその顔が、睫毛一本まで分かるほど近付き、私は思わず息を止める。

小さく頭を振り、額にかかった黒髪をさらりと払う仕草に目を奪われたとき、まだ馴染めずにいる蒼い瞳と視線が交差した。
その深い色合いに、心のすべてが吸い込まれそうになる。
よく見れば、瞳の真ん中に自分の顔が、大きく映っているのが見えた。

(私だけを……見つめてくれてる。)

ぼんやりと、瞳に呑まれていた私の耳に、大きな吐息とともに掠れた声が響いた。

「それを言うなら俺だって君に聞きたいことがある。NYへ行くのは……まさか、アイツに会いに行くため?」
はっと我に返り、すぐ首を大きく左右に振る。
「ありえないです。だって、ショータローとは何でもない……。」

そういえば……敦賀さんには何も言ってなかったんだ。
ショータローのこと。
言えずに、いた。
私も……敦賀さんと同じ。

「でも……彼のこと、好きだったんだろ?」
言い方こそやさしいけれど、震えるほど冷たいその声。
けれどその冷たさが、なぜか嬉しかった。

―――嫉妬。

私がずっと感じていた同じ感情を、敦賀さんが抱いている。
そのことに、心が震えた。

「ううん。あれは……恋でも何でもなかった。きっと……ただの幼馴染に対する感傷のようなものだったんです。だって……、だってあなたに感じる想いとは全然違う……違ってた……から。」

もう何も隠さない。
誤解されたくもない。
この想いを、ちゃんと伝えたい。

気持ちを正し、私は敦賀さんに向かい合う。
「たぶんショータローは……、昔の私にとって母親の代わりみたいなものだったんです。」
声が、震える。

「受け入れてもらえず宙に浮いた母への愛情を……」
そう、あの人とは今も会うことはない。

「私はただ、ショータローに託してしまっただけだった。」
長い睫毛の下で、瞬く蒼い瞳を見つめた。
ちゃんと伝わるようにと、願いながら。
「ただ……それだけだったんです。」


「それでも俺は、俺の知らない君の数年間を共有したアイツが憎くて憎くてならないよ。」

ぽつりと呟かれた言葉。
その言葉につい感じた悦びの色を見られたくなくて、痛いほど強く握られた手首に視線を落とした。
腕に浮かんだ血管の青が、妙に艶かしく感じて、心音が粟立つ。

―――この人がほしい。

そう強く思った。
今すぐすべて自分のものにしたいと、ただそれだけを思った。

「敦賀さん。私……証明がほしいです。」
俯いたまま、想いを吐き出した。

「証明?」
「ええ……。対象外じゃないっていう……証明を。」

空気が止まる。
敦賀さんがどう思ったのか、ふと不安がよぎる。
けれど、それでも……私は流れ始めた言葉を止めることができなかった。

「もう……17歳のころの私じゃないんですよ。大人です。だから……。」


「意味……分かって言ってる?」

焦るように勢いこんでしゃべる私を、敦賀さんの押し殺したような声が制する。
どきりと……した。
気付かれないように小さく息を吸い、唇を噛みしめ、そして告げる。


「わかってないと……思ってらっしゃるんですか?」



*



君の口から零れた信じられない言葉が、鼓膜を揺らす。
世界中の時が……止まったような気がした。
瞬きひとつで、今ここにある全てが消えうせるのではないかと、そう思った。

けれど腕の中で小刻みに震える身体が、それが嘘ではないことを告げていた。


俺が……その言葉に抗えるはずがない。

君に……抗えるはずがない。




そうだろう?






(続く)

スキビ☆ランキング ←参加してみました。よろしくお願いします。

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次話は限定になりますが、読まなくても話はつながるように書かれています。
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