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雨が雪に変わるまで (20)

一度掴んだ手を離すことがこんなにも恐怖を感じさせるなんて、信じられなかった。
押し寄せる不安と焦燥に心の全てが押し潰されそうになる。

(お願いだから・・・。お願いだから、今すぐここを開けてくれ。)

纏わりつくように全身を覆う怖気。
思いもよらぬ自分の弱さに、ただ歯ぎしりした。
底知れぬ恐怖がひたひたと音を立てて近付く。
その向こうに、ぼんやりと見える闇へ堕ちる穴。
これほどの不安を感じるのもすべて相手が彼女だからか。


そして・・・ようやくドアが開いた。
二度と閉められないよう、すぐさま隙間に脚を差し入れ、手で思い切りドアを開け放つ。
そこには、目を真っ赤に染めた彼女がまっすぐ俺を見つめていた。
(泣いていた?なぜ?)
訳が分からず戸惑う俺の目の前に、真っ白なタオルが差し出される。

「頭、下げていただけますか。」
言われるがまま前屈みに頭を下げると、部屋の暖気に溶けた氷片が額から次々と滴り落ちた。
その髪を彼女がやさしく拭い、濡れた頭をそっと包み込む。
包まれたタオルから漂ってくる清潔でやさしい香り。
それだけで不安と焦燥の波が、嘘のように引いていくのを感じた。

薄眼を開ければ、間近に見えたのは少し背伸びをし、俺の髪を拭く彼女。
切なさと恋しさに耐えきれなくなり、俺はその身体に手を伸ばす。
瞬間、察したかのようにくるりと背が向けられた。
だからつい・・・。

細い背中にしがみつくように手を回し、俺はその背に顔をぐっと押し付けた。
戸惑うように身じろぐ身体。

(抵抗しても・・・無駄だよ?)

構わず引き寄せ、左手で腰を掬い取る。
溢れ出した想いのままに絡みつけば、抱き締めた肢体から、冷え切った俺の身体に陽だまりのような温もりがじわりと流れ込んでくる。
あまりにも心地よい・・・その温もり。

「つる・・・がさん・・・。」
呟いた彼女の吐息が手のひらを掠め、柔らかな髪が俺の頬を、鼻先を、唇を、やさしく擽る。
痩身が腕の中に納まり、ジグソーパズルの最後の1 ピースがピタリとはまった瞬間のような不思議な快感が、俺を包み込んでいくのがわかった。
震える身体から響くトクトクという心音が二人だけの時を刻む音に思えて、いつまでもその中に身を浸していたくなる。

どれくらいそうしていただろう。
彼女の熱が次第に俺に移り、びしょぬれの身体に生気がどんどん戻ってくる。
その事実に、満たされる想いがした。

そのとき―――、彼女が絞り出すように呟いた。

「意味が・・・分かりません。」
(意味・・・?)

「どうして・・・こんなことするんですか。」
(どうして・・・?だって、君を愛しているから。)

「ひどい・・・です。」
(ひどい?・・・こうされるのが・・・いやってこと?・・・俺のことが・・・嫌いってこと?どうして?俺は、こんなに・・・こんなに、好きなのに。)


嫌われていてもいい。
それでも・・・離したくないと思った。
彼女が俺をどう思っていようと。
それでも俺はこの身体を離したくない。
いや、離せない。
切実にそう思った。
俺は、何があっても絶対に彼女を離せない。

そう・・・。
きっと初めて会った、あのときから決めていたんだ。
俺は、この先ずっと君だけを求め続けると。

『ショーちゃんはねェ、わたしの王子様なの~~~』
あの頃の君の無邪気な笑顔が頭をよぎる。

『だから、わたしはお姫様になって、しょうらいはショーちゃんのお嫁さんになるんだ!』
その言葉を聞いた瞬間、胸をちくりと刺した痛み。
あれは・・・小さな嫉妬だった。

この子の王子様になりたい。
俺が、この子を守りたい。
この子の傍に・・・ずっといたい。

日本の女の子のイメージが君、だったんじゃない。
あの頃からきっと俺にとって“女性”を意味する存在は、君しかいなかったんだ。

やたら我慢強くて
一途で
そして何に対しても
一生懸命なのが
印象深くて

輝く光のように・・・俺を惹きつけた君。
再会したときも、何にも変わっていなかった。
昔のまま、どこまでもまっすぐで一途で我慢強くて。
そんな君に、心を奪われないわけがなかった。
一度は闇に堕ちたこの魂が惹かれないわけがなかった。

それだけじゃない。

そう・・・君は俺が抱えた闇をその身で振り払い、愛を授けてくれたんだ。


「キョーコちゃん・・・。」

ふと口にする、昔君が許してくれた呼び名。
本当に呼びたかったモノとは違うソレ。

だから・・・全てを話し、希おうとした。
君にとっての一番を意味するその呼び方を。
そう呼べる存在になることを。


「愛してる。愛してるんだ・・・キョーコちゃん・・・キョーコ・・・・・・。」

(あの頃からずっと・・・。)


*


背中越しに感じる温もり。
敦賀さんの・・・カタチ。
ガタガタと震える身体
聞こえてきた、微かな声。

(アイ・・・シテル?)

その言葉を頭が理解する前に、もうひとつの言葉が耳に届いた。
「キョーコちゃん・・・。」

“恭子・・・ちゃん”?

ああ、そうだ。
あの時と同じ・・・だ。
今日も足元をあんなにふらつかせて。
きっと意識も朦朧としていて・・・たぶん・・・勘違いしてるんだ。

そうたぶん・・・後輩のフォローに来たことも忘れ、目の前に立つ女性の気配に、想い人を重ねているだけ。
それほど・・・この人の心の中にはあの人しかいない。

抱き締められた温もりが強くなればなるほど、離れがたい想いと恋しさが募り、苦しいほど胸が痛む。


もう耐えられない。
もう限界。
あなたはそうやって、たったひと言でいとも簡単に私の決意を打ち砕く。


カラカラに乾いた唇を舐めるように湿らせ、大きく左右に頭を振り、私は渋々口を開いた。

「ちがいますよ。敦賀さん・・・。」


*


彼女はまだ、自分の表情が鏡に映って俺に丸見えだと言うことに気付いていない。
ずっと俯いたままだから。
だから俺は、鏡越しの彼女をこっそり見つめていた。

ふっと息をはき、瞳に自嘲するような哀しげな色が宿る。
いやいやをするように大きく首が左右に振れた。

「ちがいますよ。敦賀さん。私はあなたの“恭子ちゃん”じゃありません。私は最上キョーコです。」
小さくつぶやくのが聞こえた。

どういう意味だ?
キョーコちゃんじゃないって。
それに・・・この子はなんでこんなに哀しげにそんなことをいうのだろう。

「敦賀さんは、私のことをキョーコちゃんなんて呼びません。」

重ねられた言葉。
疑問が頭を走り抜けたそのとき、鏡に映る彼女の瞳が大きく揺らぎ、一筋の涙が零れるのが見えた。

その瞬間―――、ようやく気づいた。

彼女が大きな勘違いをしていることを。
そして・・・彼女の本当の気持ちを。

澱みかけた心が一気に和らいでいくのを感じた。
萎みかけた心が再びふくらみはじめるのがわかった。

(キョーコ・・・ちゃ・・・ん・・・。)

片手で彼女を抱き取ったまま、もう片方の手でそっとコンタクトを外し、横に置く。
この蒼い瞳をみせれば、君は少しは俺の言葉に耳を傾けてくれるだろうか。
俺の話を信じてくれるだろうか。

いや・・・たとえ君が信じようとしなくても、受け入れてくれるまで俺は君を離さない。


―――決して・・・離さない。





(続く)

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